小原聖子のひとり言

スペインで過ごしたときのことやギターの事を思いつくままにつづる日記です

先日の東京国際ギターコンクール、でのこと、審査員の三船優子さんは芳志戸幹雄さんの姪御さんにあたります。毎年
お会いすると、皆さんお変わりありませんかとお聞きします。
「今年の思いがけないニュースです、実は彼のアリカンテ時代の恋人が日本にきました」
交際を反対され、無理矢理に帰国させられたので、本人同志ずっと思い続けていたのですね。
金髪の美少女で私も会ったことのある人で、ミキオからも話を聞いていた人でした。
、何十年も経ってから思いがけず、スペインにいるギタリストから、もう亡くなっているのを聞き、矢も盾もたまらず、お墓参りに来たとの話でした。

うわぁ  ドラマだね〜と清志さん、福田さん、柴田さん、皆んな昔の若かりしころを思い出すような〜遠い目つきをした顔になりました。

キレッキレのリズム感と、独特の耽美的な美意識を持ったギタリスト、本当に若くしていってしまい、残念です。

生まれた時からギター界にいた私は、殆どの方をその声音、喋りかた、佇まいなどを鮮明に想い出すことができます。
武井守成先生だけは思い出せませんが、お嬢様は記憶にあります。

然しなんかの時に、この写真の人は誰かなぁ?なんていう事態になったとき、分かるひとがいないのはギター界にとって困る事ないのかなと少し心配です。

私が子供心なりに大好きだったギタリスト、横尾幸弘さん、熱血漢、変てこな、然し子供の心のまんま、酔っ払っては父が警察に引き取りに行ってました。
物のない時代、鉛筆やノートをプレゼントしてくれました。
アルゼンチンからアニードを呼んだ時
、招待するのにその時代、闇ドルを使わないと呼べなかったという話で大きな誤解を招き、父の元から去って言った経緯がありました。このことは父の自伝、「ギタリストの余韻」にかかれています。

そして彼が藤野に移り住んだあと、藤野のフェスティバルで久し振りにあいました。わたしは朗読とプラテーロをやりました。其れを聞きにきてくださり、昔のようにお酒を沢山呑んだ後、わたしの前に手をついて深々と頭を下げ、聖子ちゃん、お父さんには悪いことをした。本当に悪かったと涙ながらに謝ってくれました。
なんという事でしょう。
本当に清らかな純粋な人でした。

そして機嫌よくなり、聖子ちゃん  あのね、さくら変奏曲   世界中の人に弾かれてるんだよ   それでね〜お小遣いになるんだよぉ!と嬉しそうに自慢していました。本当だね〜良かったね〜と私も言いました。

想い出のというには、未だ日の浅いお話しです。美山音楽祭と日本でのエル、システマを主宰、実践してらした渡部延男さんが亡くなられました。私は京都でのお別れ会に行ってきましたが、その時の、子供達の演奏に本当に感心し、心をうたれました。エル  システマで育った子供達です。まず音が清らかで美しい、隅々まで丁寧に皆んなで心を合わせて、弾いていました。IMG_1890
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エル システマはヴェネズエラで始まつた、貧しい子供達への無償の音楽教育で指揮者ドゥダメルも出身者です。
急に優れた指導者を失い子供達のこれからが心配と、奥様の康子さんに尋ねました。
私にも出来る事があるならする積りです。
最後にお会いしたのはE.フェルナンデスさんの講習会、兎に角、向学心に燃え、音楽一筋、実に人間的、かつ誠実さこの上なく
、良心的で本当に信頼できる人、私にとって常に刺激的なギタリストでした。

そして何と言っても、あのキラッキラッとした瞳  大人になってもあの様な、瞳の人には会った事がありません。

渡部さん、私、康子さんと3人で東北大震災の後、東北コンサートツアーをしました。その時にも得難い経験をさせていただき忘れる事ができません。

ひとつ、
渡部さんは良き理解者である奥様の康子さんに巡り合い、愛され幸せな方でした。というのが、せめてもの慰めです。

岩手でのコンサート、
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 fbで長谷川武さんが作曲家の古関裕而先生のことを書いてらっしゃいました。
今年生誕110年にあたり、NHKの連続ドラマになるそうです。
丁度アルバム整理していて、すごく懐かしい写真を見ていたときでした。

私が一回目の留学時代、父から古関先生ご夫妻がスペインにいかれるから、ご案内する様にと手紙がきました。
そして拙いスペイン語でマドリーやトレドをご一緒しました。まぁ、穏やかな
優しい方、奥様も同じ!
其の頃は未だ観光施設が整っていなく、バスに揺られてトレドへ。
マドリーでは名物の仔豚の丸焼きを頂いたり、 旧くからあるタブラオ  フラメンコ、「トッレ、ベルメハ」でフラメンコ見物。その時の写真です。ご夫妻、音楽院の友達メルセデス、大使館の方とです
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因みにその時の日本大使は与謝野光大使で与謝野晶子の御子息、奥様の道子さんは後に日本で沢山本をだされました。
ギター連盟の会長をして下さった与謝野秀さんに、その話をした時に「ああ  それは私の叔父です」とおっしゃってました。
私は大使館のお台所に潜り込んでは、よくご飯を食べさせてもらいました。

日本に帰って来てからも、古関先生の奥様の金子さんは詩人で金子光晴さんのお弟子さんだったので、詩人達の集まりにも連れて行って下さいました。金子光晴夫妻も際立った個性で素敵でした。

パリでは日本の著名な画家達と良い出会いの機会に恵まれました。

ブッシェが私のたっての頼みで630のギターを作って下さっていて、わたしがイタリアにいた時に、「出来たから取りにおいで」と連絡をくださり、ミラノから夜汽車でパリに着き、その足で受け取りに行きました。
住んでらした所は、画家達専用のアトリエ付きのアパート、窓が大きく、光がさんさんと溢れた気持ちの良いお部屋。
嬉しくてどんどん弾いていたら、あ、今友達呼ぶから聴かせてあげて  と言われ、ものの3分もしないうちに、その方達が現れました。荻須高徳ご夫妻でした。
何ということ!
ドビッシー賛歌を弾きました。深い音色ですね〜と。

ノートルダムの側を歩いていたら日本の男の子発見、セーヌで釣りをしていました。
家がそこだから、おいでといわれついていったら、フランス芸術文化勲章、住んでいたアトリエ跡に後に記念プレートまでつけられた、西村計雄画伯の家で家族皆んなが暖かく迎えてくれました。

お母様がおにぎりを作って下さりセーヌ川に座って食べてたら、海苔のついた真っ黒の大きな丸い玉なので、ボンバ!かと面白がられびっくりされました。

そしてふとした偶然で一昨年50何年かぶりに、自由が丘のコンサートで長女の育代さんと再会!!!
これは本当に嬉しかったです。
彼女達の住居のあった、リュイ、オウガスタン、と言ったその発音に   あ!パリだ!と一瞬で10代に戻りました。
育代さんは今大岡山でお父様のアトリエ跡にそこを美術館にされています。
わたしの友達は琵琶湖で釣り師、次男の私がギターを教えた子は日本で初めてカマンベールチーズを作った人になり北海道に住んでいます。

追記      Robert  Buchetの言葉
全てが揃っている作品や演奏は、目立つものが少なく、静かでエレガントである。見れば見るほど、知れば知るほど、聴けば聴くほど、深さが見えて来て、その人達の心を豊かにし、感性と想像力が高まってくる。
人間は自然にはなれない、しかし自然と対話して友達になれば、近づくことができる。




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