荘村清志さんから3月29日、デビュー50周年特別公演、サントリーホールでのコンサートの案内がしっかりした、字で書かれたお手紙と共におくられてきました。       
奥様の筆跡です。
お父様の正人さんが何時も「敏子が頑張ってやってくれるからね、有難いよ」と仰っていたのを思い出します。

敏子さんは清志さんと同時期に父の所に通っていて、東京国際ギターコンクールで優勝し、早稲田大学に入りながらも、僅か半年もしないうちにやめてしまいました。

豪快でエネルギーに溢れた演奏でした。

その後清志さんと恋に落ち
結婚と同時にギターをやめました。

愛する清志さんを立派なギタリストに、してみせる、この男にわたしは賭ける‼︎と  思ったのでしょうか。
潔良かったですね〜


さて、此処からは、ぶっちゃけ話です。
父と母はなんと20歳同士で駆け落ちをしました。
父は早稲田大学の学生、マンドリンクラブでしたがギターに魅せられ、学業中退  

北海道の実家からの仕送りを断たれ、母は富山の実家に軟禁されていたのを、祭りを見にいくからと、特別に外出を許され、そのまま東京行きの汽車に飛び乗り父のもとへ。

そこから二人三脚の、貧乏ながら夢と希望だけは大きい、ギタリストへの生活が始まるわけですが〜

父の仕事に100パーセント、理解、協力を惜しまず、      無愛想な父に変わり、人々と暖かいお付き合いをし、 ギタリスト達とは家族ぐるみのお付き合いや、人生相談をし、夕食にはいつも誰かが一緒にご飯を食べていて、なんだかよく分からない世界。

呑んでは大騒ぎするギタリスト達に「世間さまは夜中ですよ」「お静かに」といつも言ってました。

教室運営、生徒さんの面倒、コンサートの準備から当日のこと全て、新聞社その他へのお知らせ、要するに有能なマネージャーが家の中にいた訳です。

日本ギター連盟の下働きも全てこなし、コンクールの運営にも関わってきました。
放蕩無頼の父に、私は母に「よく愛想がつかないね!」といいますと、「同志なの」「運命共同体かな」と言いました。

寝るときに「  あゝあ寝るのが一番いい」と言っていたことを思い出します。

内助の功の極め付けだと私は思います。

母がとこちゃんと呼んでいた、敏子さんはもしかして、母のその生き様を見ていていてギタリストの妻の心得!を感じていたのではないかなと。

いつか、表舞台にいた父の陰には、一生懸命だったこういう母がいたんです、というのを書きたかったので。
                                        おしまい。